2009年度刊行の発掘調査報告(一部除く)より実費による有償配布を始めました。
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報告書No. | 書 名 | 内 容 | 発行 年月 |
代 金 | 残 部 |
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342 | 田谷町堤遺跡 | 横浜市域の南西部、柏尾川支流西岸域の丘陵斜面~微高地上に立地し、弥生時代~近世の遺構・遺物や、縄文時代の遺物など複数の時代にわたり確認しました。調査地はJR大船駅の北西約2.5km、国道1号線の原宿交差点より東約1.5kmに位置しています。弥生時代では、土坑・溝・ピット等が散漫な状況で検出され、弥生後期の壷形・甕形土器の破片が出土しました。古墳時代~奈良・平安時代では、斜面地全体に竪穴状遺構・ピット群などの遺構が不規則に展開し、土師器坏・甕や須恵器瓶類、灰釉陶器埦などが出土しています。奈良・平安時代の大型の掘立柱建物址は、その規模・立地や、重複して同じ場所に作られ続ける点など、特異性が認められます。中世・近世では規模の大きい溝を中心に、土坑・竪穴状遺構などの遺構を検出し、耕作地としての利用が窺われます。遺物は18世紀代以降の肥前系・瀬戸美濃系陶磁器、かわらけ等が出土しています。本遺跡の調査では、集落外縁~周辺域における緩斜面上の土地が、どのように利用されてきたか、時代毎の変遷が窺われました。 | 2024.3 | 7,600円 | ◎ |
341 | 寺山大仙寺遺跡 | 近世、奈良・平安時代~旧石器時代の遺構と遺物が見つかりました。 近世では大山方面へ向かう旧道に繋がる道状遺構を検出しました。奈良・平安時代では住居跡1軒を検出し、赤色顔料が付着した灰釉陶器、銅製品鋳造の際に使用されたとみられる取鍋転用の土師器坏などが出土しました。縄文時代では早期後半を中心とする土器集中と集石などの遺構を検出しました。旧石器時代では二次堆積したローム層から黒曜石を主な石材とした小型ナイフ形石器主体の石器群が出土しました。共伴する炭化物の放射性炭素年代は約2万6千年(校正年代)を示します。出土石器の特徴から相模野ロームBB2層の石器群と考えられます。 |
2024.3 | 1,200円 | ◎ |
340 | 八沢漆久保遺跡 | 八沢漆久保遺跡は、秦野市八沢に所在します。遺跡は、北西から南西に向かって下がる丘陵稜線上に位置します。調査の結果、近世、中世、縄文時代の遺構と遺物を検出しました。 近世では、土坑を検出した。分布範囲と形状、覆土から火山灰廃棄土坑と耕作に伴うものの2つに分けられました。両者の造営時期に差があったと想定され、災害からの復旧とその後の土地利用を示すものと考えられます。 中世では、溝状遺構を検出した。遺構名は溝状遺構としていますが、道として利用されたものが水流により溝状を呈したものになったと考えられます。遺跡に近接する現道が行こうと平行関係にあることから、現道を遺構廃絶に伴い付け替えたものと推測されます。縄文時代では前期前半の土器と中期初頭の土器、石器が出土しました。遺構は検出されませんでした。石器は加工具が出土しており、丘陵部における居住遺構の存在していた可能性があります。 |
2024.2 | 1,100円 | ◎ |
339 | 御伊勢森遺跡第 2 次調査上粕屋・黒岩遺跡上粕屋・北久保遺跡 | 御伊勢森遺跡第2次調査、上粕屋、黒岩遺跡は、伊勢原市上粕屋字御伊勢ノ森から秋山・辻付近まで延びる台地上に、上粕屋・北久保遺跡は、上粕屋扇状地扇頂付近から御伊勢ノ森まで延びる台地上にそれぞれ所在します。 御伊勢森遺跡第2次調査、上粕屋・黒岩遺跡は台地西部にあります。両遺跡の距離は約30mと近接しています。両遺跡からは近世、中世、奈良・平安時代、弥生時代~古墳時代、縄文時代の遺構と遺物を検出しました。近世では、18~19世紀を中心とした耕作に関連する遺構を検出した。中世、奈良・平安時代、弥生時代~古墳時代の遺構と遺物を検出しましたが、その数量は多くはありません。主たる時期は縄文時代で、早期から後期までの遺構と遺物を検出しました。なかでも中期後葉が遺構、遺物ともに最も多く、両遺跡で合わせて11件の竪穴住居址を11軒検出しました。これら住居址群は半弧状に分布していることから、環状集落の一部であったと考えられます。両遺跡と同じ台地上にあり、両遺跡から約150m東に位置する神成松遺跡においても、ほぼ同時期の環状集落が確認されていることから、近接して2つの環状集落が展開する双環状集落が形成されていたと考えられます。その他に時期では、早期の条痕文系・東海系土器の各型式が断続的に出土しており、注目されます。上粕屋・北久保遺跡では、近世、中世の遺構と遺物を検出しました。近世では、掘立柱建物や竪穴状遺構などを検出しました。八王子通り大山道に接した位置にありますが、遺物からは庶民的な生活が窺われました。中世では南側にある台地から延伸する溝状遺構の一部を検出しました。 |
2024.2 | 4,400円 | ◎ |
338 | 河村新城跡 | 河村新城跡は足柄上郡山北町、丹沢山地の南縁部西端の丘陵上に位置する城館跡です。調査を実施した結果、中世に丘陵部分が大きく改変され、曲輪、堀、橋などが多数設けられたことが判明しました。曲輪内からは、出入口である虎口のほか、掘立柱建物跡、ピット列などが検出されました。城兵が駐屯するための施設であったと考えられます。また、出土遺物も貿易磁器、かわらけ、銃弾など多彩です。とりわけ遺構の土壌を洗ったところ、兵粮の一部と考えられる炭化したコメやムギなどの穀物類、動物骨が多く見つかりました。本報告書は小田原北条氏の城館構造を知る上で重要な成果と言えます。 | 2023.9 | 7,200円 | △ |
337 | 汲沢町吹上ケ遺跡 | 汲沢町吹上ケ遺跡は、 境川支流の宇田川東岸における相模野台地に立地します。近世では耕作に係る溝状遺構、 畝状遺構、土坑が発見され、本遺跡が集落の生産域として土地利用されたことが明らかにされました。中世では士製品が出土し、本遺跡周辺で当該期土製品の空白を埋める貴重な事例となりました。奈良•平安時代では耕作に係る土坑が発見され、南武蔵型土師器が出土しました。縄文時代では早期頃の落とし穴と推定される土坑と中期初頭の廃棄坑と推定される士坑が発見され、本遺跡が早期頃に狩猟の場、中期初頭に廃棄の場として土地利用されていたことが明らかにされました。本遺跡で発見された遺構と遺物は、これまで不明であった横浜市南西部における各時期の地城的・文化的な形成の あり方を解明する上での極めて貴重な成果となりました。 | 2024.3 | 2,200円 | ◎ |
336 | 田谷町相ノ田谷遺跡 | 田谷町相ノ田谷遺跡は、柏尾川支流の関谷川右岸における多摩丘陵上の緩斜面に立地します。今回の調査の結果、本遺跡では近世、中世、奈良・平安時代、弥生時代~古墳時代前期の各時代の遺構や遺物が発見された他、古墳時代中・後期、縄文時代の遺物が出土しました。奈良・平安時代~近世では集落の主に耕作地として土地利用される生産域の様相が当該期の遺構と遺物からうかがえます。また中世の弓や、弥生時代の石斧の発見は、横浜市栄区における当該期の貴重な調査事例となりました。本遺跡で発見された遺構と遺物は、これまで不明であった横浜市南西部における地域的・文化的な形成のあり方を解明する上での極めて貴重な成果となりました。 | 2024.1 | 6,000円 | ◎ |
335 | 菖蒲平台遺跡 | 菖蒲平台遺跡は神奈川県西部の秦野市内を流れる四十八瀬川と濁沢に挟まれた丘陵のやせ尾根上に立地しています。調査の結果、近世~旧石器時代の遺構や遺物が発見されました。特に旧石器時代の調査では、旧石器時代終末期の細石刃石器群が発見され、6箇所の石器集中地点が確認されました。おそらく石器製作跡と考えられ、出土した炭化物のC14年代測定の結果、17400~17500年前の値が得られました。また出土品整理作業では、細石刃石核5点を含む良好な接合資料が得られ、細石刃製作技術を解明する上で、貴重な資料となりました。 | 2023.9 | 2,200円 | △ |
334 | 粟窪・林遺跡 粟窪・林台遺跡 粟窪・四石田遺跡 |
粟窪・林遺跡の調査範囲は主に台地南側の北西から南西へ向く斜面地に所在し、旧石器時代から近世の遺構・遺物が発見されている。旧石器時代はB4層上部の2箇所で、台形様石器、剥片、炭化物などが出土している。縄文時代は竪穴住居址等は検出されず、遺構外から主に早期後葉から末葉と中葉の土器が出土している。古墳時代後期から奈良・平安時代には台地南東の斜面に集落が形成される。集落の中心的な年代は9~10世紀代である。中世では13世紀代に、調査区南東に馬小屋と推定される矩形状の建物や大規模な道状遺構が作られる。15世紀以降、調査区中央南側に掘立柱建物址が建てられるが、調査区の大半は段切りを施して耕作地として利用されたと推定される。近世も引き続き段切りを行い、耕作地として利用されている。調査区中央南側は継続して掘立柱建物址が所在し、近隣に炭焼窯も造られる。粟窪・林台遺跡の調査範囲は台地東側の南西から北東に降る斜面地に所在し、縄文時代から近世の遺構・遺物が発見されている。縄文時代は主に遺構外から中期初頭、後期後葉の土器が出土している。弥生時代後期から古墳時代前期には集落が形成される。古墳時代後期から奈良・平安時代にも前代よりやや南・東に位置を変えて集落が展開している。中世では墓と考えられる土坑が発見されているが土地利用は活発でなく、近世には段切りを施して主に耕作地として利用されていたと考えられる。粟窪・四石田遺跡の調査範囲は西に位置する粟窪・林遺跡との間に南北に延びる小尾根を挟んだ、東側の傾斜面に位置する。縄文時代から近世の遺構・建物が発見されているが、各時代を通じて土地利用は活発でなく、近世になり小尾根上付近に建物址が建てられている。 | 2023.3 | 6,600円 | ◎ |
333 | 上粕屋・秋山上遺跡第2次調査 | 伊勢原市上粕屋に所在する上粕屋・秋山上遺跡は、上粕屋扇状地の北縁付近に立地する旧石器時代から近世までの複合遺跡です。中でも縄文時代後期の住居跡から多くの遺物が出土しています。特にそのうちの1軒の住居から出土した石棒は、約20m離れたところから出土した石棒と接合し、表面に彫刻を施したほぼ完形の大形彫刻石棒(長さ103cm)に復元されました。 | 2023.3 | 3,750円 | ◎ |
332 | 堀西下森戸遺跡 | 堀西下森戸遺跡は神奈川県西部の秦野盆地の北西部、水無川と四十八瀬川に挟まれた台地上に立地しています。標高は256~260mです。調査の結果、縄文時代から近世にいたるまでの遺構や遺物が発見されました。縄文時代早期~前期では集石、土坑、石列を発見し、後期前葉では敷石住居跡1基を発見しました。弥生時代では焼土跡1基と前期末~中期初頭の土器が出土しました。中世では地下式坑を1基発見しました。それぞれ単独ではありますが、調査事例の少ない地区として、今後の近隣の調査成果と結びつくものです。また、中世の波板状凹凸遺構は、道の下部構造の可能性が高く、明治前期の大絵図にも図示される道の走行方向と一致しており、近世の段切りとともに近・現代に続く道の前身とも捉えられ、本地区の歴史をひも解くうえでの貴重な成果となりました。 | 2023.1 | 1,100円 | ◎ |
331 | 神成松遺跡第8地点Ⅰ | 神成松遺跡第8地点は、上粕屋扇状地の中央台地とその南側谷戸に位置し、本書では2区とした、台地の南側縁辺部と谷戸の調査結果を収録した。台地においては、近世~奈良・平安時代では、畑地に伴う畝状遺構や土坑、調査区域を縦断する道状遺構などが発見され、弥生~古墳時代及び縄文時代では、竪穴住居跡など集落の縁辺部の状況を示す遺構群が発見された。縄文時代の竪穴住居跡は、後期前葉の敷石住居を中心とし、谷戸に面する斜面地にも分布する。谷戸においては、近世から中世後半では、畑地に伴う畝状遺構や溝状遺構、道状遺構(生活道路)などが発見され、中世前半では、溝状遺構(水路)を伴う水田状遺構が発見された。奈良・平安時代から縄文時代では、河道跡が確認され、河道からは木組遺構や土坑(水場遺構)などが発見された。 | 2022.3 | 4,400円 | ◎ |
330 | 原宿町八幡山遺跡 | 原宿町八幡山遺跡は、横浜市域南西部、境川と柏尾川に挟まれた丘陵斜面上に立地し、近世及び縄文時代並びに旧石器時代の遺構・遺物を確認した遺跡である。旧石器時代の層位からは、黒曜石の剥片2点が出土している。縄文時代の遺跡は、丘陵上の北向き緩斜面上に展開された、竪穴住居や土坑・ピット群で構成される集落地とその外縁の一部を検出した。竪穴住居址の内部からは、縄文時代早期の深鉢形土器の破片や、石鏃などの石器と共に黒曜石から石器を製作した痕跡が見つかっている。近世では土坑や溝状遺構・竪穴状遺構など様々な種別の遺構を検出し、規模の大きい溝状遺構による地割を確認出来た。遺物は18世紀代以降の肥前系・瀬戸美濃系陶磁器、かわらけ、銅製の古銭や煙管などの金属製品が出土している。 | 2022.3 | 2,000円 | ◎ |
329 | 小雀町殿谷ッ遺跡 | 小雀町殿谷ツ遺跡は、柏尾川支流の関谷川西岸における多摩丘陵に立地する。近世では台地部で土坑、低地部で段切りと溝状遺構等と調査区で発見された遺構が種類によって分布するあり方が異なることにより、遺跡内において土地利用のあり方が区別されている可能性が遺構全体の分布状況からうかがえた。また中世の溝状遺構・土坑、縄文時代の土坑等の遺構の発見は、横浜市戸塚区南部における当該期の貴重な調査事例となった。 | 2022.3 | 1,200円 | △ |
328 | 上粕屋・一ノ郷上遺跡第2次調査 上粕屋・雷遺跡 上粕屋・一ノ郷南遺跡第2次調査 |
上粕屋・一ノ郷上遺跡第2次調査は大山山麓南東縁の丘陵上、上粕屋・雷遺跡は、丘陵から台地へと移行した台地上、上粕屋・一ノ郷南遺跡第2次調査は、上粕屋扇状地内にある台地に立地します。上粕屋・一ノ郷上遺跡第2次調査では、近世、古墳時代後期~奈良・平安時代、弥生時代、縄文時代までの遺構と遺物が認められました。主な時代である古墳時代後期~奈良・平安時代では、従前の調査で判明していた集落跡(7~10世紀)の一部を検出しました。該期の竪穴住居址の1軒から鏨が出土しました。集落内での鍛冶作業を想起させるものであり、貴重な資料と言えます。弥生時代では中期中葉の土器を、縄文時代では遺構と中期の土器を検出しました。 上粕屋・雷遺跡では、奈良・平安時代の遺構と埋没谷を検出しました。埋没谷は、縄文時代中期初頭以前に形成されたと考えられます。上粕屋・一ノ郷南遺跡第2次調査では、近世、古墳時代後期~奈良・平安時代、縄文時代の遺構と遺物を確認しましたが、いずれの時代の遺構と遺物は多くはありませんでした。過去に行った同遺跡調査との比較から、北側に延びる舌状台地における土地利用のあり方に差があるものと考えられます。 |
2022.2 | 1,200円 | ◎ |
327 | 田谷町堀ノ内遺跡 | 田谷町堀ノ内遺跡は、柏尾川支流の関谷川における多摩丘陵南東部の平坦地から斜面にかけて立地する。弥生時代~近世の各時代の遺構や遺物が発見された他、縄文時代と旧石器時代の遺物が確認された。中世・近世では段切りや溝状遺構が検出され、本遺跡の斜面地に対する同種の土地造成のあり方が確認された。奈良・平安時代ではピットがまとまって検出され、後世の削平で消失した範囲にも同種の遺構の分布する可能性が示唆された。弥生時代では後期の竪穴住居跡が発見されたことで、本遺跡周辺に展開していた当該期集落跡の一端が明らかにされた。 | 2022.3 | 1,500円 | ◎ |
326 | 小田原城三の丸杉浦平太夫邸跡第Ⅴ地点 | 調査地は小田原城三の丸に位置し、弥生時代中期後半の土器集中と溝・土坑・ビット、古墳時代前期後半~中期初頭の土器集中と溝・土坑・ビット、奈良・平安時代の溝が出土しました。小田原北条氏に関わる中世末では、16世紀後半の礎石列や方形竪穴状遺構・井戸・溝・土坑・ビットとともに、鉄精錬・鋳造に関わる遺構・遺物として硬化面や鉄滓集中を検出し、石製鞴羽ロ・鉄滓、銅鋳造に使用されたかわらけを転用したトリべが多数出土しました。近世では17世紀前半の礎石建物跡、17世紀後半~19世紀の家老屋敷の北側に設けられた石組み溝や方形石組みを伴う貯水池、土取りや火災後の瓦礫の片付けのために掘られた大型土坑などの遺構を検出しました。これらの遺構とともに茶器を主体とする近世陶磁器が出土しています。 | 2022.3 | 2,700円 | △ |
325 | 菖蒲内開戸遺跡Ⅱ | 菖蒲内開戸遺跡は秦野盆地の南西端に位置し、南東に四十八瀬.川を臨む河岸段丘上に立地する縄文時代~近世の複合遺跡です。近世では耕作跡と土坑基、奈良・平安時代~中世では耕作跡と竪穴住居跡、掘立柱建物跡、土坑が確認されています。縄文時代晩期~弥生時代では類例の乏しい時期の土器が数段階にわたって出土しています。縄文時代は草創期から晩期までが確認されており、中期末~後期初頭では竪穴住居跡が出土し、集落の存在が明らかとなりました。 | 2022.1 | 4,400円 | △ |
324 | 東正院遺跡第2次調査 | 東正院遺跡は柏尾川支流の関谷川右岸における相模野台地南東端の平坦地に立地する。近世では本遺跡が属した関谷村で流通したと推定される18世紀以降の陶磁器が出土し、中世では玉縄城の関所が設置される以前の寺院との関係が想定される天目茶碗や花瓶が出土した。弥生時代は中期後半の宮ノ台式土器が出土し、本遺跡周辺において不明であった当該期の様相の一端が明らかとなった。縄文時代では早期前葉の竪穴住居跡とそれ以前の落とし穴と目される土坑が発見され、狩猟場から居住域に変遷する過程がうかがえた。前期末葉でも竪穴住居跡が発見され、それ以後の当該期には威信財もしくは遠隔地交流の所産と推定される石器を伴う土坑が確認された。土坑は出土遺物から墓坑と推定され、居住域から墓域へと土地利用が変遷する過程も確認された。後期では土坑・ピットが当該期の土器を伴って検出された。土坑は第1次調査で発見された柄鏡形(敷石)住居跡から構成される当該期の集落に関係する墓の可能性がある。旧石器時代ではL1H層から石器が出土し、本遺跡周辺で同層位出土石器分布の空白を埋める貴重な成果となった。 | 2022.1 | 1,500円 | △ |
323 | 跡堀遺跡Ⅲ | 跡堀遺跡は相模川左岸の自然堤防上に立地し、弥生時代後期~古墳時代前期、古墳時代後期~奈良・平安時代、中世、近世以降と複数の時代にわたる、遺構・遺物が確認された。本調査は5次調査にあたる。弥生時代後期から古墳時代前期では調査範囲の北西部に竪穴住居跡などの集落が発見された。古墳時代後期から奈良・平安時代では、竪穴住居跡や土坑などの発見、多量の土錘の検出により、旧河道を利用した生活の場だったと推定される。中世では、南北に走る幅3.0~4.0m、深さ約1.2m、全長約120mの長大な溝状遺構の継続部分が確認できた。その規模や、舶載青磁酒会壺、舶載青磁碗などの出土、さらに井戸跡出土の漆器椀などから、ある程度の経済基盤を持つ層の存在が推定される。近世以降は多くの遺構と遺物が確認された。 | 2021.3 | 4,400円 | ◎ |
322 | 東富岡・南三間遺跡第2次調査 東富岡・北三間遺跡第3地点 東富岡・東之窪遺跡 |
東富岡・南三間遺跡では、12~16世紀を中心とする中世の遺構・遺物が、丘陵東緩斜面から発見されました。居住空間というよりも竪穴建物や井戸などの作業スペースと考えられる遺構が中心で、鉄滓が周辺から多量に出土し、製鉄関連の遺構群と推定されます。遺物は、青磁・白磁・丹波産茶壺・瓦質花瓶などの陶磁器類と銭貨鋳型・模鋳銭や猿形土製品などの珍しい遺物が出土しました。また「河内入道」等と罫書きされた四葉硯は貴重な文字資料で、伊勢原の中世史を語る上で重要な発見です。他2遺跡所収。 | 2021.2 | 1,700円 | ◎ |
321 | 菖蒲内開戸遺跡Ⅰ | 菖蒲内開戸遺跡は四十八瀬川右岸の丘陵地に位置し、縄文時代早期・前期・中期・後期・晩期、縄文時代晩期終末~弥生時代前期初頭、平安時代、中世、近世(以降)と複数の時代にわたる遺構・遺物が確認された。縄文時代では縄文時代中期の土器集中、石材貯蔵土器などが認められた。特に中期の石材貯蔵土器(曽利式)からは星ヶ塔産の黒曜石が出土している。縄文時代晩期終末~弥生時代前期初頭では土器集中、土坑などが認められたほか、栽培種のアワ等を土器圧痕から確認することができた。該期社会の生業などを解明する上で良好な資料である。 | 2019.2 | 800円 | ◎ |
320 | 生麦八幡前遺跡 | 生麦八幡前遺跡は鶴見川河口付近の右岸の台地上に形成された遺跡で、近代から縄文時代の遺構や遺物を確認できました。弥生時代~古墳時代は竪穴住居の調査により、在地の土器だけではなく東海地方や東京湾沿岸等の他地域の要素の入った土器が多く確認されており、遠隔地との交流をうかがうことができます。縄文時代は、ほとんどが加曽利E2式期またはE3式の時期に相当する竪穴住居ですが、東側で1軒のみ加曽利E4式期の時期の柄鏡型住居が確認されています。また、鶴見川河口付近に形成された遺跡の特徴として、住居内貝層を確認できたものが3軒あります。貝は干潟に生息するイボキサゴが大半を占め、干潟周辺で採集された貝も見受けられ縄文時代の食生活の一部を知る手がかりとなりました。 | 2019.3 | 1,900円 | △ |
319 | 宮山中里遺跡Ⅳ | 今回の調査では近世の堤防、中世の掘立柱建物跡、奈良・平安時代の竪穴住居跡、古墳時代後期の古墳(周溝)、弥生時代中期~古墳時代前期の竪穴住居跡と溝状遺構等の遺構や各時期の遺物などが出土し、複数の時期にわたる自然堤防上の集落遺跡と位置付けられました。特筆すべき成果として、近世堤防が古絵図に符号する河川改修跡であったことや、古墳時代後期の古墳が相模川左岸最大級の古墳群を構成していたこと、弥生時代後期の竪穴住居跡と溝状遺構が相模川左岸最南端の環濠集落跡であったことがあげられます。加えて、倉見川登・倉見川端・宮山台畑等の周辺遺跡と居住域・墓域・生産域等に関連する集落であったことも明らかとなりました。 | 2018.3 | 5,000円 | ◎ |
318 | 倉見川端遺跡 第2次調査 | 倉見川端遺跡は、寒川町が第1次調査を実施しており、今回は第2次調査になります。今回の調査では近世の堤防、奈良・平安時代~中世の溝状遺構・畝状遺構、古墳時代後期の古墳(周溝)、弥生時代後期~古墳時代前期の竪穴住居跡等の遺構が検出され、各時期の遺物などが出土し、複数の時期にわたる自然堤防上の集落遺跡と位置付けられました。特筆すべき成果として、古墳時代前期頃の竪穴住居跡より出土した小型倣製珠文鏡があげられます。 | 2018.3 | 3,100円 | ◎ |
317 | 宮山中里遺跡Ⅲ | 宮山中里遺跡は、弥生時代後期~古墳時代前期の環濠集落、古墳時代後期の古墳群、奈良・平安時代の集落、中・近世の集落などが発見されています。今回の報告範囲では、奈良・平安時代の遺構・遺物が多く確認されたエリアで、居住域から生産域、そしてまた居住域へと時期によって土地利用の変遷がわかる。特に注目されるのは、井戸から墨書土器「西」がまとまって出土し、井戸に隣接する溝状遺構からは、おおよそ同時期の土師器の坏が集中して出土している。何らかの祭祀を行った可能性が想定され、集落内祭祀の一端をみる事ができる。また、古代末の遺物が良好な状況で確認されており、隣接するⅤ区(宮山中里遺跡Ⅱ)と同様な様相である事が明らかになった。 | 2016.9 | 1,950円 | ◎ |
316 | 小原台堡塁跡・小原第3遺跡 第2次調査 |
小原第3遺跡・小原台堡塁跡は三浦半島の東端付近にあたる、北側に東京湾が面する小原台台地上の平坦面に立地する。調査では、縄文時代早期を中心とした遺物包含層と炉址、近世では溝状遺構を確認した。また近代明治期の小原台堡塁については、空壕とその外縁にあたる土塁が検出され、空壕の中からは排水施設や杭列・側防窖室などを検出した。近代大正期では、大正2・3年に実施された小原台堡塁を、敵の陣地と仮想した爆破演習において構築された塹壕や爆破痕といった遺構が良好に遺存しており、爆破工作の手法などを復元する上で他にない極めて貴重な資料である。 | 2016.3 | 800円 | × |
315 | 戸田小柳遺跡 | 戸田小柳遺跡は相模川右岸の沖積微高地に立地し、弥生時代後期~古墳時代前期、古墳時代後期~平安時代、中世、近世と複数の時代にわたり遺構・遺物が確認された。弥生時代後期~古墳時代前期は自然流路が見つかっているが、これに伴う杭列が見つかっており、当時の人々が自然に手を加えて利用していた痕跡を確認することができた。竪穴住居跡は1軒確認されたのみであるが、近接して集落が存在する可能性を示すものであろう。出土した土器は在地のものが中心であるが、西遠江に系譜をもつものや東京湾沿岸系のものも散見される。古墳時代後期~平安時代では溝および流路が見つかっている。特に自然流路からは土器類が多量に出土したほか、H20号流路からは舶載鏡である双頭龍紋鏡(位至三公鏡)が出土しており、特筆される。中世では溝をはじめ、土坑やピット、近世では井戸や溝が検出されている。 | 2016.3 | 1,600円 | ◎ |
314 | 宮山中里遺跡Ⅱ | 本遺跡は弥生時代後期~古墳時代前期で耕作を示唆する畝状遺構が検出されたことから該期期に生産域であった可能性がある。古墳時代後期では古墳(周溝)2基が調査区西側で検出され、当該古墳群が西側に分布する傾向が把握された。奈良・平安時代では四面庇の掘立柱建物とその付近から瓦塔(路盤)が発見されたことにより寺院の存在した可能性がうかがえた他、9世紀後半~11世紀前半の遺物が竪穴住居跡から出土したことから、当該集落がその期間存続していたことが明らかとなった。中世~近世では調査区が溝状遺構と畝状遺構に特徴付けられることから該期では主に集落の生産域であったと考えられる。 | 2016.3 | 1,500円 | ◎ |
313 | 小原台堡塁跡・小原第3遺跡 第1次調査 |
小原第3遺跡・小原台堡塁跡は三浦半島の東端付近にあたる、北側に東京湾が面する小原台台地上の平坦面に立地する。調査では縄文時代早期から前期前半を中心とした遺物包含層と炉址、近世の溝状遺構を検出した。これらの時代の遺跡は、調査範囲の北側の崖線付近に集中しており、他の範囲は明治時代の小原台堡塁構築に伴うと考えられる削平を受け、遺存状態は良好とはいえない。一方、調査成果で中心とな近代明治期の小原台堡塁は、煉瓦・コンクリート構造物の上屋部分は大正期の爆破演習や昭和期の開発に伴い消失していたものの、地下空間部分については良好な状態で遺存していることが観察された。 | 2015.12 | 2,500円 | × |
312 | 上粕屋・一ノ郷南遺跡 上粕屋・和田内遺跡 |
上粕屋・一ノ郷南遺跡、上粕屋・和田内遺跡の両遺跡は、上粕屋扇状地内にある台地に立地する。上粕屋・一ノ郷南遺跡では、近世から奈良・平安時代、縄文時代、旧石器時代までの遺構と遺物が認められた。近世は耕作地に関する遺構、奈良・平安時代では、8~9世紀の集落跡を検出した。縄文時代では遺構は少ないが、早期~後期までの遺物が出土している。特に中期初頭五領ヶ台式が主たる時期となる。旧石器時代では、L1S~B1層から石器が出土している。上粕屋・和田内遺跡では、近世~奈良・平安時代、縄文時代、旧石器時代の遺構と遺物を確認した。中世では、中世墓が検出された。中世墓は「(伝)糟屋一族の墓」と呼ばれる伝承地とその周囲から確認した。他の遺構は存在しないことから、墓域のみの空間として利用されたことが明らかとなった。旧石器時代ではB1層とB2層の2つの文化層を確認した。B2層は相模編年第Ⅲ期の石器群の特徴を示す資料である。 | 2016.2 | 2,120円 | ◎ |
311 | 西谷町山王通遺跡 | 横浜市域の中西部、帷子川中流域左岸の丘陵斜面上に立地し、近世と縄文時代の複数の時代にわたり遺構・遺物を確認した。調査地は相模鉄道本線西谷駅の南西側に位置している。縄文時代では、丘陵上の南向き緩斜面上に陥穴やピット群で構成される遺構群を検出した。その周辺からは、縄文時代中期及び後期の土器の破片や、打製石斧・磨石などの石器が見つかっている。近世では土坑や焼土址・溝状遺構など様々な種別の遺構を検出し、中でも溝状遺構は調査区全体を東西に通過するようにして確認することが出来た。調査地点の北側には、古くは八王子往還、又は八王子道と呼ばれた古道と目される道路があり、溝状遺構はこれに関連するものであった可能性も考えられる。遺物は18世紀代以降の肥前系・瀬戸美濃系陶磁器、かわらけ、砥石などの石製品、銅製の煙管などの金属製品が出土している。 | 2015.12 | 550円 | ◎ |
310 | 戸田小柳遺跡 第2地点 | 戸田小柳遺跡は相模川右岸の沖積微高地に立地し、弥生時代後期~中世の溝状遺構が検出された。特に弥生時代後期~古墳時代前期の溝状遺構では杭列が伴うものも確認された。遺物は中世の舶載磁器が少量と、弥生時代~古墳時代にかけての土師器や須恵器、灰釉、緑釉陶器などが多数出土している。 | 2015.9 | 550円 | ◎ |
309 | 倉見川登遺跡 第1次調査 | 弥生時代後期~古墳時代前期、古墳時代後期、奈良・平安時代、中世、近世以降の遺構・遺物が多数確認された。弥生時代後期~古墳時代前期においては、4地区あわせて38軒の竪穴住居跡が確認されている。寒川町内の沖積微高地において集落が形成されている事が明らかとなった。古墳時代後期では、5基の古墳が周溝の存在により確認されており、うち1基は前方後円墳の可能性が高く、この古墳の周溝からは耳環が出土している。奈良・平安時代は、竪穴住居跡が1軒確認されているが、ピットや土坑を中心とした遺構が多く確認されている。中世~近世前半では、宅地としてではなく耕作地に関連して利用されていた可能性が高い。近世後半以降は、相模川の堤防が確認され、この状況は南に位置する倉見川端遺跡や宮山中里遺跡でも一連のつながりが確認されている。 | 2015.12 | 1,450円 | ◎ |
308 | 上粕屋・和田内遺跡 第3次調査 | 上粕屋・和田内遺跡は、上粕屋扇状地内にある台地に立地する。本調査は第3次調査にあたり、平成22年度に行われた新東名建設に伴って調査(第1次調査)された調査区の北側に隣接する。本調査では、近世、奈良・平安時代、縄文時代の遺構と遺物を確認した。奈良・平安時代では区画の役割を持ったやや大型の溝状遺構を確認した。溝状遺構は第1次調査で確認された遺構の延伸部分にあたる。縄文時代では集石や土坑が見つかっており、遺物は中期初頭の五領ヶ台式土器が出土している。 | 2015.8 | 350円 | ◎ |
307 | 河原口坊中遺跡 第2次調査 | 海老名市所在。相模川左岸の自然堤防上に立地している。弥生時代~古墳時代前期の竪穴住居址148軒、方形周溝墓2基、旧河道、古墳時代後期~平安時代の竪穴住居址28軒、掘立柱建物址2棟、中世~近世の竪穴状遺構や掘立柱建物址など多数の遺構が検出されている。弥生時代中期~後期には、多数の土器・石器・木製品などが出土した。集落内を流れる河道跡も利用され、漁労施設と思われるしがらみ状遺構がつくられている。板状鉄斧、小銅鐸など外来の希少遺物も出土しており、当該時期の拠点集落と位置づけられる。弥生時代中期前半の遺物も出土している。古墳時代後期~平安時代も集落が形成され、多数の遺構、遺物が出土している。集落の存続時期の中心は9世紀~10世紀前半。墨書及び朱書きされた土器、朱墨の付着した土器、土師器の坏を転用した多数の灯明皿、仏鉢型土器、灰釉陶器浄瓶または水瓶などが注目される。これらの特徴から官衙関連施設や寺院で使用されていた可能性、また、万灯会などの祭祀的行為の可能性などが想定される。 | 2015.3 | 8,500円 | × |
306 | 真田・北金目遺跡群 | 平塚市所在。真田・北金目遺跡群の中の3遺跡・7地点について実施した。発掘調査結果は、いずれもこれまでの成果を補完する内容。中世城館である真田城の堀と考えられる溝状遺構からは、中世後期のかわらけや石製品などのほか、漆器碗や下駄などの木製品が良好な状態で出土しており、特筆される。 | 2015.3 | 1,500円 | ◎ |
305 | 東田原象ヶ谷戸遺跡 | 秦野市所在。東田原象ヶ谷戸遺跡は金目川右岸の河岸段丘上に立地し、縄文時代、弥生時代、平安時代、近世と複数の時代にわたる遺構・遺物が確認された。縄文時代の調査では、草創期の有舌尖頭器が単独で出土し、時期の異なると思われる集石遺構が発見された。また、主に早期撚糸文期を中心とした遺構・遺物が発見され、当該期における土地利用の様子が窺える、まとまった資料が得られた。弥生時代では、落とし穴状土坑内の覆土中から獣骨が出土し、狩猟対象等を考える上でも貴重な手がかりを与えるものと思われる。平安時代の調査では、耕作痕と重複して円形土坑が確認された。近世の調査では、宝永年間における富士山噴火による火山灰を処理し、農耕地を復興させた天地返し痕がみられた。 | 2014.12 | 1,000円 | ◎ |
304 | 河原口坊中遺跡 第1次調査 | 海老名市所在。相模川左岸の自然堤防上に立地している。遺構・遺物ともに種類・量ともに多い。弥生時代~古墳時代前期の竪穴建物址292軒、掘立柱建物址7棟、方形周溝墓13基、旧河道が5地点、流路5条、古墳時代後期~平安時代の竪穴建物址26軒、古墳の周溝10基、小石室12基、中世~近世・近代の溝状遺構30条、井戸20基、レンガ建築の酒造施設ほかの建物址5棟、旧河道など弥生時代~近代までの遺構が多数検出されている。また、弥生時代の絵画土器や青銅製品・ガラス小玉、東海系装飾高坏片が出土し、旧河道からは多量の木製品も出土している。木製品の他にも種実や昆虫・魚骨・獣骨・大型植物遺体など台地上の遺跡では残存しにくい有機質も多数出土している。 | 2014.3 | 9,800円 | × |
303 | 上ノ町遺跡Ⅴ | 茅ヶ崎市所在。小出川東南岸の自然堤防・微高地上に立地する奈良・平安時代~近世の遺跡である。今回の調査では、近世では道状遺構や井戸址が、中世では溝状遺構が、奈良・平安時代では竪穴住居址が3軒確認された。竪穴住居址3軒のうち1軒からは、須恵器坏底部を硯に転用した土器が出土し、朱墨の痕跡が確認されている。 | 2014.3 | 350円 | ◎ |
302 | 畑久保西遺跡 | 相模原市緑区所在。相模川左岸の河岸段丘(田名原面)上に立地。標高153~156mを測る平坦面に縄文時代早期・前期・中期・後期、古墳時代後期、平安時代、中・近世の集落、遺物包蔵地が展開している。縄文時代の集落は中期中葉の所産と考えられるもので、竪穴住居址・竪穴状遺構・配石遺構・土器集中等によって構成される。この他、後期前~中葉の配石遺構・焼土址・埋納遺構・土器廃棄場、早~前期の集石・炉穴・陥穴状土坑・竪穴状遺構などが発見された。平安時代の竪穴住居址は9世紀代の所産。調査区全域に中・近世以降の耕作域が展開。調査区西半部には掘立柱建物址・井戸址を中心とする居住域も認められる。 | 2014.3 | 6,300円 | ◎ |
301 | 下馬周辺遺跡 | 鎌倉市所在。下馬周辺遺跡は、由比ガ浜の若宮大路に面した、嘗ての砂丘上に立地している。13世紀後半から15世紀にかけての竪穴建物址を中心とする遺構が発見されている。28号竪穴建物は長さ約14.8mの大形建物で、床面に掘られた円形の土坑からは鎧が発見されている。この時代の鎧の部位がまとまった状態で出土することは極めて希で、注目を集めた。また、小穴からは銭貨20緡がまとまって出土している。他の遺構からも、多数の土器、石製品、金属製品などが豊富に出土している。 | 2014.3 | 3,000円 | × |
300 | 河原口坊中遺跡 第4次調査 | 海老名市所在。河原口坊中遺跡は、相模川左岸の自然堤防上に立地し、弥生時代から利用されていたと考えられる。第4次調査で、弥生時代中期~古墳時代前期、および奈良・平安時代にかけての集落跡が発見された。中世になると、溝状遺構に区画された屋敷地の様相を呈する。弥生時代~古墳時代の遺構群は濃密であるが、加えて本調査では、中世の痕跡も濃密で河原口地区の中世を解明する上で良好な資料である。 | 2014.2 | 4,800円 | × |
299 | 上ノ町遺跡Ⅳ | 茅ヶ崎市所在。小出川東南岸の自然堤防・微高地上に立地する奈良・平安時代~近世の遺跡である。今回の調査では、中世~近世の居館を区画する溝の延長部分と、7世紀後半~8世紀前半頃の竪穴住居址1軒が確認された。この住居址からは、「編み物石」と呼ばれる錘具がまとまって住居址床下から出土しており、上ノ町遺跡の出土事例としては3例目となる。 | 2014.3 | 450円 | ◎ |
298 | 西富岡・向畑遺跡Ⅰ | 伊勢原市所在。遺跡は相模平野の西端に位置する伊勢原台地上に位置し、旧石器時代、縄文時代、古墳時代後期から奈良・平安時代、中世~近世と複数の時代にわたり遺構・遺物が検出された。旧石器時代では県内最古級の細石刃石器群が発見されたことが注目される。縄文時代では中期後葉~後期前葉の住居跡と共に南北に延びる帯状粘土列が検出され、類例のないものである。古墳時代後期から奈良・平安時代では7世紀後半の住居跡が主体をなす。特徴ある遺物として、古墳時代後期の竪穴住居跡から金銅製飾金具が8点重なって出土した例と、奈良時代の竪穴住居跡から帯金具が10点纏まって出土した例があげられ、本遺跡の性格を検討していく上での貴重な資料となった。 | 2014.2 | 2,500円 | × |
297 | 中依知遺跡群 第2次調査 | 厚木市所在。中依知遺跡群は相模川右岸の河岸段丘上に立地し、縄文時代・古墳時代後期・平安時代~中・近世と複数の時代にわたる遺構・遺物が確認された。縄文時代の調査では、陥穴状土坑が発見され、狩猟場など当該期の土地利用の様子が窺える。古墳時代では、第1次調査で発見された2号~4号横穴墓の墓道の続きが発見され、その規模が推定できた。奈良・平安時代の調査では、第1次調査で発見された伝道と考えられる長大な道路状遺構の続きが捉えられ、更に西方へと延びていた。中世以降の調査では、低位段丘の東側台地上に5基の地下式坑が発見され、第1次調査で発見された地下式坑群の一部を成していた。また、地下式坑群の南西側に、同時期と考えられる土壙墓群の存在がほぼ明確となった。 | 2014.2 | 800円 | △ |
296 | 小倉原西遺跡 | 相模原市緑区所在。相模川右岸の河岸段丘上に立地し、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、奈良・平安時代、近世と複数の時代にわたり遺構・遺物を確認した。旧石器時代の遺物はB1層中で5箇所の石器集中部を検出し、黒曜石・凝灰岩製のナイフ形石器や槍先形尖頭器・剥片類の接合資料などが出土した。縄文時代では早期~前期の陥穴群を、弥生時代では中期の土器を、奈良・平安時代では散在する土坑・溝等の遺構群を、近世では竪穴状遺構・柵列のほか、畑の畝址や土坑など耕作に関わる遺構と、土坑墓群による墓地を確認することが出来た。当該地の地域史を解明する上で貴重な資料の一つとして評価出来る。 | 2014.2 | 1,500円 | ◎ |
295 | 馬場綿内谷遺跡 | 横浜市鶴見区所在。鶴見区西岸に広がる台地上に位置する。旧石器・縄文・古墳時代・平安時代・近世の各時代にわたる遺構・遺物が発見された。旧石器は石器・剥片類が発見された。縄文時代は前期の竪穴住居4軒、また斜面に形成された前期~中期前葉の遺物包含層が発見されている。古墳時代は後期の竪穴住居16軒・横穴墓4基が近接して発見された。古墳時代の竪穴住居は小さな谷戸内に営まれ、古墳時代の集落景観を復元する上で、格好の事例である。平安時代は火葬墓4基が発見されている。このうち2基には縄文時代貝塚から持ち込まれたと思われる貝殻が被せられていた。当該期の埋葬習俗を考える上で重要な発見である。近世は道跡・建物跡が発見されている。 | 2013.12 | 2,000円 | △ |
294 | 上粕屋・石倉中遺跡 | 伊勢原市所在。遺跡は大山山麓の台地上に位置する。近世大山詣で賑わいをみせた大山道経路の近傍にあたり、古くからの交通の要衝であった地域である。調査では近世~近代の建物跡などが発見され、井戸や溝など屋敷地様相の一端が明らかとなった。特に各時代の道状遺構の発見は特筆されるもので、近世大山道と捉えられる大規模な道状遺構の新たな発見、現存する大山道の古い経路であると考えられる中世の道状遺構は、側溝を有するものであった。さらに奈良・平安時代の所産と考えられる道状遺構の一部も発見され、大山に関連する各時代の経路の変遷を辿る上で重要な成果を得た。 | 2013.12 | 1,200円 | △ |
293 | 新羽浅間神社遺跡 | 横浜市港北区新羽町所在。浅間神社が鎮座していた亀甲山及びその周辺の調査を実施。特筆すべきは、弥生時代前期末~中期前葉の土器棺墓及び土坑で、土器棺墓に伴う土器3点がほぼ完形に復元された。 | 2013.9 | 1,000円 | △ |
292 | 子易・大坪遺跡、 子易・町屋裏遺跡 |
伊勢原市所在。子易・大坪遺跡での主な遺構・遺物は、弥生時代前期末の中屋敷段階に比定される土器や、落とし穴。縄文時代後期の竪穴住居址(敷石住居含む)が多数検出。敷石住居のなかには、環礫や周提礫を伴うものも見つかっている。子易・町屋裏遺跡では、奈良~平安時代の5面に及ぶ畝状遺構や土坑、ピットのほか、縄文時代では後期以前に大規模な土石流が発生していたことが確認され、土石流真上に土器片が散布していることから大災害以降、人々が戻ってきた様子がうかがえる。 | 2013.3 | 1,800円 | ◎ |
291 | 上粕屋・香々久保遺跡、 上粕屋・一ノ郷上遺跡 |
上粕屋・香々久保遺跡は、大山山麓南東縁の丘陵上と丘陵に挟まれた谷戸に立地する。本遺跡からは、弥生前期~中期前葉の条痕文土器と貯蔵穴と思われる土坑群が検出された。該期の資料は、伊勢原市内では稀有であり、貴重な資料となった。上粕屋・一ノ郷上遺跡は大山山麓南東縁の丘陵上に立地する。本遺跡からは、7世紀後半から10世紀に至る集落跡が確認された。集落からは、地鎮を行った住居址や銙帯金具の鉈尾が出土した住居址が検出されている。 | 2013.3 | 1,000円 | × |
290 | 東富岡・西之窪遺跡、 東富岡・南三間遺跡、 東富岡・北三間遺跡 第2地点 |
東富岡・西之窪遺跡では、中世、近世の炭焼窯が検出された。中世段階では谷地の埋没部を利用した道状遺構が検出され、谷の肩部には掘立柱建物址が所在する。東富岡・南三間遺跡は、近世段階で大規模な段切り・整地が行われ、建物群や墓坑群が形成されている。中世には地下式坑群が展開し、古墳時代前期~平安時代は小規模な集落が存在した。東富岡・北三間遺跡第2地点は各時代とも積極的な土地利用の痕はみられないが、中世の上屋を持つと思われる竪穴状遺構や平安時代の竪穴住居址が発見されている。 | 2013.3 | 2,500円 | × |
289 | 大保戸遺跡 | 大保戸遺跡は相模川右岸に位置する。串川と相模川によって形成された河岸段丘上に立地している。旧石器時代ではL1S層から細石刃関係の資料が出土している。縄文時代は集石・多数の落とし穴状土坑が検出され、早期に帰属する土器が多数出土している。弥生時代は落とし穴と考えられる土坑、奈良・平安時代は竪穴住居跡、近世は長方形土坑群をはじめ、溝状遺構や柵列、ピット列が検出されている。 | 2013.3 | 1,600円 | △ |
288 | 小保戸遺跡 | 小保戸遺跡は相模川右岸に位置する。串川と相模川によって形成された河岸段丘上に立地している。注目されるのはB1層下部から検出された環状分布を呈する礫群であり、旧石器時代における住居跡の可能性がある。その他、縄文時代は集石・多数の落とし穴状土坑、奈良・平安時代は竪穴住居跡、中世は長大な溝状遺構や地下式坑、近世は多数の墓坑が検出されている。 | 2013.3 | 6,300円 | × |
287 | 当麻遺跡 第1地点 | 当麻遺跡第1地点の調査範囲は、県報告にある当麻遺跡の第1地点調査範囲の東西両側にあたる。遺跡は陽原段丘上にあり、田名向原遺跡などをはじめとする、田名塩田一帯に広がる遺跡群と同一段丘上に立地している。今回の調査では主に近世の富士塚など、奈良・平安時代の集落跡、古墳時代後期(住居1軒のみ)、弥生時代(土坑1基のみ)、縄文時代の集石(花弁状の下部構造を有する)、落とし穴など、土器は中期初頭主体、旧石器時代3文化層(細石刃・槍・ナイフ)が検出されている。 | 2013.2 | 2,400円 | △ |
286 | 葉山島中平遺跡 | 相模川右岸の河岸段丘に立地する近世以降、奈良・平安時代、縄文時代の遺跡である。遺構は近世以降の畝状遺構、奈良・平安時代の円形土坑、縄文時代の配石、集石、焼土址、炭化物集中ピット、遺物集中が発見された。遺物は勝坂式、加曽利E式、曽利式、堀之内1・2式等の縄文土器と打製石斧・磨製石斧・礫器・磨石・石皿・凹石・石錘等の石器が出土している。 | 2012.12 | 350円 | ◎ |
3 | 朝比奈町やぐら群Ⅱ (神奈川県埋蔵文化財 発掘調査報告書) |
横浜市金沢区朝比奈町に所在。鎌倉の朝夷奈切通しからのびる丘陵裾に所在し、平成22年度調査したやぐらの東側に位置する。やぐら1基、井戸状遺構1基、龕状遺構1基を調査。出土遺物なし。 | 2012.2 | 200円 | △ |
285 | 三ノ宮・下木津根遺跡Ⅱ | 三ノ宮・下木津根遺跡(財団報告245)の北側隣接地、伊勢原市と平塚市の市境付近、県道63号沿いに位置する。主な時代は、弥生時代後期~古墳時代前期にかけての集落と方形周溝墓。これらの遺構から、外来系土器が多数出土しており、特に方形周溝墓からほぼ完形のタタキ甕が出土している。この他、近世の大山道の一部が発見されている。 | 2012.3 | 600円 | ◎ |
284 | 渋沢奈良郷遺跡 第Ⅱ地点 | 遺跡は秦野市渋沢と、足柄上群大井町篠窪の境界部分の標高240mの丘陵尾根部に位置する。江戸時代の溝と耕作跡、奈良・平安時代の円形土坑と耕作跡、縄文時代晩期の炉跡、縄文時代の集石、土坑、ピットと早期、前期、中期の土器や石器などが発見された。特に縄文時代前期後葉の土器がまとまって出土している。 | 2012.3 | 500円 | ◎ |
283 | 独園寺やぐら群 | 横須賀市浦郷町に所在。中世のやぐらの調査。方形の玄室で、出土遺物はなかった。深浦湾に面し、周辺にはやぐら群が広がる。独園寺やぐら群中の1基の調査報告 | 2012.3 | 300円 | ◎ |
282 | 山野根横穴群 | 逗子市山の根に所在。古墳時代の横穴墓の調査。ドーム型天井で鉄鏃が出土した。横穴墓の密集する三浦半島でも有数の群である、山野根横穴墓群中の1基の調査報告。 | 2012.3 | 300円 | ◎ |
281 | 池端・坂戸遺跡 | 伊勢原市伊勢原四丁目に所在。近世、中世、奈良・平安時代、縄文時代の遺構や遺物が確認された。中でも近世(18世紀前後)の大山道に関する成果と、縄文時代中期から後期にかけての集落に関する成果は注目される。 | 2012.3 | 1,200円 | ◎ |
280 | 天神谷戸遺跡Ⅱ | 中群二宮町の葛川左岸に所在する弥生時代から近世にわたる遺跡である。古墳時代では水田状遺構、奈良・平安時代では溝状遺構、中・近世では井戸址等の遺構が発見された。遺物では弥生土器、土師器、須恵器、陶磁器、かわらけ、漆椀、石鉢、銭貨等が出土している。 | 2012.3 | 400円 | ◎ |
279 | 仏向貝塚・仏向遺跡・仏向町遺跡 | 横浜市保土ヶ谷区仏向町に所在。縄文時代前期の集落と後期の集落と貝塚、早期から晩期の遺物、弥生時代後期~古墳時代初頭の集落が発見されている。ほかに、平安時代の竪穴住居、中世・近世以降の遺構や遺物も発見された。 | 2012.3 | 1,200円 | × |
278 | 用田大河内遺跡Ⅱ | 藤沢市用田に所在。目久尻川を望む標高15m程の台地上に位置している。近世~中世の溝状遺構・ピット群や掘立柱建物・長方形土坑などが発見されている。主に近世は18世紀代、中世は15世紀代の遺物が出土している。また、旧石器時代の石器集中地点がB2層を中心に発見されている。 | 2012.2 | 1,200円 | ◎ |
277 | 跡堀遺跡II | 海老名市門沢橋に所在。相模川左岸の沖積地の自然堤防上に位置する。近世の井戸や溝、中世の大溝、平安時代の集落と水場遺構などが発見されている。 | 2011.5 | 1,500円 | ◎ |
276 | 本牧荒井横穴墓群 | 横浜市中区本牧荒井に所在する横穴墓群の調査。2基の横穴墓を調査したが、横穴墓に伴う遺物は発見されず、いずれも近世以降に改変を受けている。玄室の形態等から7世紀代の造営と考えられる。 | 2011.3 | 350円 | ◎ |
275 | 渋沢奈良郷遺跡 第I地点 | 近世から古代にかけて畑地利用されていたことが観察されたほか、縄文時代の陥穴が地滑りによって遺構の上下が分断されていることが観察された。このことは近くに存在する国府津・松田断層とともにこの地域の災害史を考える上でも貴重な資料と言える。 | 2011.3 | 350円 | ◎ |
274 | 榎戸横穴墓 | 6基の横穴墓を調査した。3~6号横穴墓は形態的特徴や位置関係から、3・4号、5・6号という2基1単位の小群に分けることも可能であろうか。玄室平面形態は三浦半島地域のなかで普遍的ながら、付帯施設は鎌倉郡を中心とした地域の要素を含んでいる。 | 2011.2 | 300円 | ◎ |
273 | 鶴巻南遺跡群II | 縄文時代、古墳時代~近世までの遺構と遺物が確認されている。中でも古墳時代前期に帰属する竪穴住居址が4軒確認され、これまでの調査事例に加え、更に集落の広がりが確認されました。 | 2011.3 | 400円 | ◎ |
272 | 上行寺裏遺跡 (六浦二丁目3番地近世墓群) |
18世紀後半を中心に17~19世紀前半にわたる近世墓標145基、土坑墓等の埋葬施設11基の調査結果を掲載。 | 2011.3 | 500円 | × |
271 | 成田上耕地遺跡第I地点 成田諏訪脇遺跡第I地点 |
弥生時代末葉~古墳時代前期は、墳墓と考えられる溝が複数発見されている。遺構外からは古墳時代前期所産と考えられる銅鏃が1点出土している。古墳時代後期~奈良・平安時代は、竪穴建物・掘立柱建物・土坑・ピットなどの遺構群が発見されている。溝は多数発見されており、大きな溝からは須恵器・土師器などの他、木製品が出土している。 | 2011.3 | 2500円 | ◎ |
270 | 朝比奈町やぐら群 坂本元屋敷やぐら群 |
朝比奈町やぐら群 横浜市金沢区朝比奈町に所在。鎌倉の朝夷奈切通しからのびる丘陵裾に位置する。やぐら1基を調査。出土遺物なし。坂本元屋敷やぐら群 横浜市金沢区釜利谷に所在。宮川の流れる谷に面する丘陵斜面に位置する。小形のやぐら2基を調査。うち1基のやぐら内にあった五輪塔・宝筐印塔を記載。 | 2011.2 | 300円 | × |
269 | 能満寺(上ノ寺)跡 | 鎌倉市十二所に所在する。13世紀後半~14世紀代の平場遺構とやぐら1基が調査された。 | 2011.2 | 200円 | △ |
268 | 長谷大谷やぐら群II | 1基のやぐらを調査した。3号やぐらは不明な点があるものの、14世紀前半に寺院に伴って造営が開始されたと推測される。その後、近世に至るまで利用は継続し、宝永年間前に天井が崩落し、利用が終了したと考えられる。 | 2011.2 | 200円 | ◎ |
267 | 今田広町遺跡 | 今田広町遺跡は縄文時代草創期頃から後背湿地化する。古墳時代後期から中世前期には水稲が開始された可能性もあり、耕作地としての萌芽が認められようか。中世後期には耕作地に関連する溝も確認され、整備が進み、近世・近代へと続いていく。 | 2011.3 | 1,000円 | ◎ |
266 | 石橋石丁場群玉川支群 | 小田原市早川所在の石丁場で、江戸時代初期の江戸城改修に伴い、石垣用の石材が生産された跡になります。財団が調査した9個の矢穴石と、県教委が調査した11個の矢穴石について報告されています。これらの矢穴石には「十」の刻印が確認されています。 | 2011.3 | 540円 | × |
265 | 問答ヶ原遺跡 | 横須賀市域北東端の小原台台地上の平坦部に立地し、縄文時代の集石等のほか、近世以降の竪穴状遺構や溝・段切等を検出した。これらの遺構群は小原台堡塁や演習砲台周辺の防空陣地に関連した施設である可能性もあり、三浦半島地域に存在する戦時遺構との比較検証を行う上で貴重な資料である。また小原台台地上の遺跡としては、初めて古墳時代後期の遺物が出土している。 | 2011.1 | 400円 | ◎ |
264 | 社家宇治山遺跡 | 相模川左岸の自然堤防上に立地した遺跡で、近世から弥生時代にわたる多くの遺構と遺物が発見された。中近世は遺跡全体に広がる集落の跡が発見された。古代では集落の跡や集落と同時期に何度も補修を繰り返した道状遺構が発見された。弥生時代後期から古墳時代にかけては、南側の方形周溝墓を中心とした墓域と、北側の玉造工房をはじめとした集落地域とが発見されている。(全5冊) | 2011.5 | 9,500円 | × |
263 | 池子遺跡群XI | 逗子市池子米海軍池子住宅地内所在。平成18~21年度調査。近世以降の水田関連遺構、平安時代~中世の旧河道・杭列、古墳時代の土器集中などが検出された。遺物は近世以降の陶磁器、平安時代の土師器・灰釉陶器・陶恵器・木器・骨角器、古墳時代中期の土器などが出土。花粉・植物遺存体・動物遺存体などの自然科学分析も掲載。(全3冊) | 2011.2 | 3,500円 | ◎ |
262 | 川尻遺跡III | 相模原市緑区谷ヶ原に所在する。近世では溝や畝等の耕作跡、縄文時代では草創期の槍先形尖頭器のほか、中期の竪穴住居が発見され、川尻遺跡環状集落の西端の一部を明らかにすることが出来た。 | 2010.12 | 1,700円 | ◎ |
261 | 津久井城跡Ⅲ (本城曲輪群地区) |
相模原市緑区の津久井城跡山頂部・本城曲輪の第3次調査。本丸に通じる門跡と考えられる礎石建物址の他、川原石を用いた石敷き遺構も見つかった。これらの成果から、城の登城ルートの一部が明らかにされた。 | 2011.1 | 400円 | × |
260 | 下糟屋・丸山遺跡(第6地点) | 伊勢原市域東部、渋田川左岸の丘陵上に展開する中世丸山城の調査。北側外郭における堀周辺の状況や、内郭である高部屋神社隣接地での掘割周辺の遺構群を検出。竪穴状遺構や掘立柱建物の柱穴、地下式坑などを発見したほか、堀の一部から瓦の破片が出土している。 | 2010.9 | 700円 | × |
259 | 下堀広坪遺跡 第I地点 下堀塚田町遺跡 第I地点 下堀道上町遺跡 第I地点 |
下堀広坪遺跡第I地点・下堀塚田町遺跡第I地点は、下堀方形居館と呼ばれる中世土豪屋敷の隣接地などの調査。外堀と考えられる堀からは、中世陶磁器破片資料の他、漆器や木製品・銅製品(笄)などが出土。居館外側の北西部にあたる調査区からは居館に関連施設と考えられる柱穴や井戸などの遺構群が発見されている。下堀道上町遺跡第I地点は、下堀方形居館から約300m西側に離れた地点にあたる。田畑などの区画溝と考えられる中世以降の溝が多数発見されている。 | 2010.12 | 1,500円 | ◎ |
258 | 山下居留地遺跡 | 幕末横浜開港に伴って建設された外国人居留地の48番地、53~55番地と駿河町通りと呼ばれた街路の一部について調査された。調査により関東大震災の痕跡や、外国人商館跡からは当時の西洋食器、ワインボトル、タイルなどが多数出土した。これらの下層からは古墳時代後期の集落や縄文土器なども出土している。 | 2010.3 | 1,100円 | × |
257 | 長谷大谷やぐら群 | 鎌倉市所在の14世紀に造営されたと考えられるやぐら2基が報告されている。 | 2010.3 | 400円 | △ |
256 | 明石ヶ谷東やぐら群 | 14世紀後半には利用が始まったと考えられるやぐらの調査成果。近世以降は副室を設けるなど、別の目的で利用され続けたと考えられる。 | 2010.3 | 200円 | ◎ |
255 | 正光寺・自得寺周辺やぐら群 | 横須賀市追浜所在の3基のやぐらについて報告されている。 | 2010.3 | 200円 | ◎ |
254 | 小田原城跡八幡山遺構群Ⅳ (第4・5次調査) |
初期小田原城を形成する八幡山古郭のうち、西曲輪西堀、三味線堀、本曲輪北堀が確認された。小田原市初の壺形埴輪も出土した。 | 2010.3 | 1,000円 | × |
253 | 松葉ヶ谷奥やぐら群 | 鎌倉市所在の鎌倉時代末~南北朝時代に造営された3基のやぐらについて報告されている。 | 2010.2 | 400円 | △ |
252 | 桜山うつき野遺跡II | 縄文時代晩期~弥生時代初頭の低湿地遺跡です。獣骨、小貝層が出土しています。縄文海進の自然貝層あり。 | 2010.3 | 500円 | ◎ |
251 | 小出川河川改修事業 関連遺跡群Ⅲ 茅ヶ崎市七堂伽藍跡(2) |
縄文時代から近世にわたる遺跡で、古代寺院、官衙に関連する建物跡や墨書人面土器、県内初事例となる人形・絵馬などが出土している。 | 2010.3 | 4,000円 | ◎ |
250 | 城際遺跡 | 弥生時代後期から中・近世にわたる遺跡で、弥生時代後期から古墳時代前期の住居址、方形周溝墓や14~15世紀の中世集落跡。(全3冊) | 2010.3 | 3,700円 | ◎ |
249 | 津久井城跡馬込地区 | 旧石器時代では7枚の文化層が発見され、最も古い第6文化層では県内最古級の石器群が環状ブロック群を形成。その他、縄文時代の落とし穴、中世では津久井城関連の遺構が発見されている。(全2冊) | 2010.2 | 2,800円 | × |
248 | 久野下馬道上遺跡(第II地点) | 奈良・平安時代の土坑・ピット、弥生時代・古墳時代の遺物が出土している。 | 2009.12 | 1,000円 | ◎ |
247 | 上ノ町遺跡III | 中世居館の一画とされる区画溝などが発見されている。 | 2009.12 | 420円 | × |
246 | 津久井城跡II (本城曲輪群地区) |
津久井城の本城曲輪群の調査成果。各曲輪で石組遺構発見。遺物は中世後半を中心とした陶器類。 | 2010.1 | 200円 | × |
245 | 三ノ宮・下木津根遺跡 | 主に弥生時代後期~古墳時代後期にかけての集落跡、古墳時代中~後期の竪穴住居址から筒形器台の破片や遺跡から古墳時代前期の北陸系装飾器台が出土している。 | 2009.9 | 400円 | × |